定年退職まで貫いた「マイペース」!仕事はがんばりすぎないことがポイント

会社辞めたいと思った体験談

加齢で誰でも衰える!定年まで勤めるために頑張りすぎないことを徹底した

人一倍、頑張り屋だった自分を止めることから始めました。

つまり、頑張らないように頑張ることにしたのです。

例えば、できるだけ力を抜いて、頭を使わないように努めました。

といっても、本当に頭を使わないわけではありません。

分析、判断する領域と言われている左脳をできるだけ動かさず、直感、感覚を司っているとされる右脳を使うことを意識したのです。

簡単に言えば、理論的なことはあまり考えないようにして、リラックスした状態で仕事に向かうようにしたということです。

周囲からかなりの不評を買ったようですが、最終的にはこの行動が自分を助け、ゴールの定年退職までたどり着くことができたというわけです。

かつての私の仕事は、とあるメディアの編集部。

文字通り文章を扱うもので、相当な知識と左脳的能力が必要でした。

もちろん企画立案することもしばしばで、右脳的資質も問われます。

ただ最終的に文章を書いたり読んだり調べたり、あるいは整理したりする能力というのは左脳的なもの。

つまり論理的思考回路が要求されるのです。

この仕事を長年やっていると、蓄積された知識の下、次第に面白くはなってきます。

ただ、これだけに集中できるのならいいのですが、ほかにも個人的な事情などが加わって、多面的に物事を考えなければならなくなったとき、器用にすべてをこなせるかどうか。

加齢もあって私には次第に難しくなっていきました。

それでもついつい頑張りすぎてしまうのです。

どうしようもない性格のなせるわざ。

とでも言った方がいいような状態に陥っていったのです。

40代で編集の仕事に限界を感じ、校閲部門へ異動を願い出た

そんな状態が数ヶ月から数年という単位で続くと、もうこれ以上は無理、限界…といったところにまで達してしまいます。

私の場合は、それが四十歳代の入り口でやってきたのです。

そこで私がとった行動は、まず比較的単純作業的な部署への異動を願い出ました。

最近のテレビ番組でも話題となった「校閲」部門にです。

即OKをもらえました。仕事の中身自体は面白く、入社当時から本当は自分に一番合っているのではないかと思ったこともあった部署でした。

ただ社内的格付けが低かったのです。

確かに創造的作業に比べたら、下位になるのは仕方ありません。それより健康が第一。

最終的には自分の中での優先順位に従ったまでのことです。

この仕事は「読む」という作業が中心。

本来、左脳的能力を要するものです。

それでも右脳を優先させることにしました。

一字一句丁寧に読むという姿勢が必要でしたが、感覚を重視した読み方に徹しました。

簡単に言うと、要旨、要約をつかむことに重点を置いて読むといった感じです。

ただこれをやると、大切な部分を見落とすことがあります。

そんなときはセカンドチェックで上司なり、別の同僚が見つけてくれたりするものです。

もちろん、その逆のケースもあることはあります。

とにかく、こうして仕事自体は何とかやり過ごしてきたということです。

ほかにも、人間は基本的にすべてをこなせる者などいないもの。

ですから、自分ができないことは、できる人間に任せたり、頼んだりしてやりすごそうと考えたのです。

当然、ひんしゅくも随分と買いました。

それでもそんな批判や中傷など気にせず、というか極力聞かないよう努めました。

格言にもある「見ざる、言わざる、聞かざる」。

最終的には自分を守るためとの思いからでした。

めげそうになっても「ここが踏ん張りどころ」と何度も自分に言い聞かせました。

まるで暗示でもかけるように…。

言葉では言い尽くせないほど実に辛い道のりでした。

それでも本当によく頑張りました。

変な言い方かもしれませんが、自分で自分を自分をほめてやりたいくらいです。

ただ、一つだけこの自分のやり方、行動が間違っていないと思えたことがあります。

それは自分と同じように苦しく、つぶれそうになった人間が今後はまだまだ増え続けるであろうということ。

その後輩たちのために「あ〜、あんな人でも頑張れたんだ。

あんな風にやれば生き延びられるんだ」との、ある意味「最低」と思われるかもしれませんが、お手本にでもなれたらいいと思ったのです。

かつて先輩の中に、似たような行動をとっていた人がいました。

もちろん、その人は他人が持っていない能力や知識を持っていました。

それを別なところで存分に発揮し、静かにアピールしていました。

だから、社内的には誰にも文句など言わせない威圧感みたいなものを持っていました。

その先輩にはとても足下には及ばないものの、私としては下手くそながら真似をさせてもらったような格好です。

ただ後輩には、そんなすごい先輩のような例ではなく、私みたいなちっぽけな例の方が安心感を与えられるのではないか。

ずっとサバイバル効果があって、より多くの連中が救われるのではないかと思ったのです。

単なる自己満足な話かもしれませんが、この思いが私を支えてくれたものの一つになっていたことも否めない事実です。

ときには批判をされたが、相談する友人がいたから仕事を続られた

友人とは実にありがたい存在です。

友人がいなかったら今の私は存在しなかったことでしょう。

定年までもたなかったことでしょう。

私は社内に親しい友人が数人いたのです。

彼らが最終的には仕事場での私を物心両面にわたって支えてくれました。

ときに盾になり、ときにカバーに入ってくれたり、はたまたアドバイスしてくれたり、励ましてくれたりと…数え切れないくらいのサポートを受けました。

血気盛んな若手の連中が激高して迫ってくることもあったものです。

上司としてあるまじき態度だと言って、私の上の連中に直訴されたこともありました。

それでも上の連中といっても結局は私のかつての後輩であったりして、私に対してそれなりに遠慮したり、配慮したりしてくれていた面もあったように思います。

友人が自身の友人や、その後輩に口添えしてくれたりと、私の知らないところでサポートしてくれたのだろうと思ったりしたことも多々ありました。

相談した友人と直接飲みに行ったりして、落ち込む私をよく励ましてもくれました。

もちろん、友人の中には親しかった先輩も含まれます。

職場や廊下などで会うと常に言葉をかけてくれました。実にありがたかったものです。

それでも私がとった行動は、かつての頑張り屋さんだった自分から逸脱するため、以前のように先輩に愛想をこいたり、こびたり、根回ししたりなどといったことは決してしませんでした。

以前の私を知り尽くしている人たちだけに、随分とひんしゅくを買ったことと思います。

「申し訳ありません」心の中でそう叫びながら、それでも自分の気持ちに素直になって突き進むことに徹したのです。

友人の中にはこの姿を見て「それは単なる甘えではないか」と言われたこともありました。確かにその通りかもしれません。

心の中で「済まない。そうさせてくれ」と訴え、結局のところ、すべての友人たちにこの甘えを許してもらったような格好を続けまくったのです。

退職に向けて家計のやりくりを調整し、再雇用無しで定年退職した

定年退職といっても、再雇用の道はありました。

「選択」締め切りぎりぎりまで迷いに迷いました。

しかし、結局は自分の気持ちに素直になることにしたのです。

心身ともにとても再雇用に耐えうるだけの気力も体力もありませんでした。

決断した以上は後には引けません。となると、次なる問題は生活費です。

預金と年金、退職金、失業保険でどう賄うのか。

まずは出費を減らすことを最優先に考えました。生命保険の保険料をはじめ食費や小遣い、光熱費など家計収支の調整が第一関門でした。

あれこれ考えた末、年金が満額支給される65歳までは預金を崩していくしかないとの結論に達しました。

生活はうんと厳しくなります。それも覚悟の上です。

本当は今直ぐにでも退職したいというのが正直な気持ちでした。

それでも家族を養うには、少なくとも定年までは最低限、頑張る必要がありました。

歯を食いしばってでも…。

最終的には「お金」になるのかなあ…などと考えながら、連日の疲れに耐え続ける中、家計収支の調整に奔走する日々を送りました。

そして数年後、計画通り定年退職を無事迎えることができたのです。

半年後にはパートにもつけて、不足分は預金を崩しながら何とか家計を維持している状態です。

それでも当初の想定の範囲内と言えなくもありません。

計算通りであれば、あと数年で収支はプラスに転じるかもしれない状況です。

充実した毎日。かつて再雇用を断念したこと。

加えて、それまでマイペースを貫いたこと。

いずれも間違っていなかったと、今もって心底感じている次第です。

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