本当にきつかった小学校教員の仕事!残業に休日出勤で2年で限界になり退職

会社辞めたいと思った体験談

2年で小学校教員を退職した理由

数年間、小学校教員として勤務していた際の経験を綴らせていただきます。

短い経験だったこともあり、文章が読みにくいかもしれませんがご勘弁ください。

小学校の仕事は授業の準備で残業が無限になる!

私は大学を卒業してからすぐに、幼い頃からの夢であった小学校教員として教鞭を執ることとなりました。

元々、子供と遊ぶことが好きだったこともあり子供達との生活はとても充実して楽しいものでした。

4月に勤務し始めた頃は、まだ春休み中ということもあり主な仕事は教材選びや児童の個人情報の整理が大半を占めていました。

その他には、学校内の役割分担に関する会議がひっきりなしに行われていきました。

ここまでは、どのような職場にでもある年度始めの慌ただしさの一種だと思いますが、問題は子供達が学校に来てから起こりました。

教員が一日の大半の時間を費やし、最も大切な業務の一つとしているであろう授業です。

この授業の準備が本当に大変なのです。

「子供達にわかりやすい授業を提供するためなのだから当然だろう!」by保護者一同

そうですね、至って正論だと思います。

私たち教員(私は元教員ですが)は、子供達にわかりやすい授業を提供して学力を身につけさせることが最も大切な業務です。

しかし、この作業は拘るとどこまでも時間がかかってしまうのです。

足し算の授業をするとします。

人によっては、全て板書でいいと言う人もいれば、子供達がわかりやすいように数字をプリントアウトしたものをラミネートし、切ってから配付するべきだと主張する人もいます。

結果を申し上げると、子供によって前者が正解の場合もあれば後者が正解の場合もあります。

しかし、現代の教員が世知辛いのは、この指導方法が違うが故に保護者からクレームを頂戴することが多々あるということです。

だから、教員の大多数は学年で指導方法を統一して授業をします。

単独プレーは、クレームの原因にもなるのであまり好まれません。

そして、どのような指導方法にするのかを決めるのは学年を統べる学年主任という存在。

私が職を辞そうと決意したのはここの存在が大きかったと思います。

この学年主任があまりにも教育に情熱を注ぎすぎ、拘った教授方法を学年に提案してきた場合、ペーペー達は従うしかないのです。

経験がない当時の私は全てに”yes”と答えていました。

結果、私は学年の児童分の数字(1?9)をプリントアウトし、ラミネートすることになったのです。

とてつもない時間がかかりました。分業すれば良いものの、担当は私ということで学年主任は帰ってしまったので夜中の12時近くまでこの作業を繰り返していました。

授業の成果としては、板書のみでもよかったのではないか…と思うほど収穫はありませんでした。

どの教科でも、「この教え方がいいのではないか?」と思いつくと、そこに向かって突っ走る人物が学年にいると、いつまで経ってもその教材作りに付き合わされ帰れなくなります。

個人の性格の問題もありますが、そのために教員の残業手当はないのだそうです。

保護者のクレームの恐怖!辞めたいという気持ちを煽るモンスターペアレント

流行ったと言えば流行った「モンスターペアレント」という言葉。

教員時代によく、「モンペっているの?」と尋ねられました。

いますよ。

私は、この方々を悪く言う気はありません。

ただ単に、自分の子供のことを心配している方が大半だからです。

しかし、心配するがあまり勢い余って教員に辛辣な言葉を浴びせたり、奇行(ここではそう呼んで起きましょう。)に走ってしまったりした結果「モンペ」化したと言われているのだと思います。

心は子を心配する親の鏡と言っても過言ではありません。

しかし!

やはり、辛辣な言葉や奇行は教員として耐え難いものがあります。

保護者と教員の連絡ツールとして連絡帳と言うノートがあります。

子供達は保護者から教員に対して何かしらの連絡があった場合、そのノートを担任の先生に提出します。

連絡があったとして、一行程度のものから二?三行のものがほとんど中、私が受け取ったのは見開き二ページに渡る超大作。

どれどれ…と、思って内容を確認。要約すると、「無理して給食を食べさせないでください。」と言うことでした。

家庭での教育方針に始まり、栄養学的な見解を交えた意見がツラツラと綴られていました。

当然、その児童はその日から給食を平然と残し始めました。

まぁ、無理矢理食べさせたことは一度もないのですがね。

そんなこんなで、一生懸命指導したことがクレームに繋がると言うことが実感し、職を辞する決意が更に高まりました。

顧問になると休みが消滅!まさかの150連勤で限界になり退職

一年目から、バスケ部(ミニバスケットボール少年団)の顧問として指導をしていました。

私が最職を辞そうと決意した最大のポイントです。

簡単に申し上げると、休みがない!!

やれ練習だ、やれ大会だので私は就職一年目にして150連勤と言う記録を叩き出しました。

本当に死ぬかと思いましたね。

そこに保護者のクレームが入ってきてまさにWパンチ!

しかも、この業務は特定の人間にしか与えられないものなので、同じ年の男性教員は充実したプライベートを過ごしている私は間血反吐を吐く思いで指導をしていました。

私と彼は何が違うの?

助けてくれたっていいじゃない。

私サッカー経験者なのに…。

そんなことを考えながら、気がつくと腸炎になり半日入院していました。

安定の職業と言われる公務員ですが、その中でも教員は特殊な存在なのかもしれません。

私は一年間でこのような経験をしましたが、結局転職までは2年かかりました。

転職先は、自動車販売店の事務です。

公務員に比べれば不安定な職業なのかもしれませんが、あの時よりもプライベートが充実し「生きているな」と感じることができています。

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